私の父親のアウトプット(感情表現)のあまりの少なさから、毎度私は「全く愛されていない」と勘違いしてしまうが、そうではないということが後から毎度判明する話。
先日親にとあるアイテムを送った。
親の生活が少しでも快適になれば、と思って送った生活便利グッズ。
そして、母親からは一言「ありがとうね~」という感じのラインが入り、父は無反応。
私は「もっと感謝してよ!もっと喜びを表現してよ!感想を教えてよ!」と内心不満だった。
なぜ、贈り物が届いても、父はその感謝をラインなりで伝えようとしないのか。
母にラインを送らせて、それで終了とするのか。
直接私にコンタクトを取ってこないのか。
私は「いやいや。だけど、感謝の強要するって私もヤバいな。親は私の所有物じゃないんだ。反応なんて人それぞれだし。どんな反応をしようと相手の自由でしょ。あげたくてあげたなら、私だってそれで良かったでしょ。」と自分をなだめた。
そして今日、とある別件で母に久しぶりに電話をしたら
「こないだのあれ、ありがとね~!すごく便利ね~!お父さんも、使ってみてから感想とお礼を言うんだって言ってたわよ~」と嬉しそうに言う母。
なんだ、父も母も喜んでくれてたのか。
アウトプットがなさすぎて、またいつもの「私は両親に全く愛されていない病」が発動しかけていた。
昭和も昭和すぎる父は、家族に感情表現を昔から全然しない人だった。
会話もほとんどしない。
昔からアウトプット(こちらになにかを伝えてくる)をほんとうにしない人だったので、こちらは父の気持ちを推測するしかできなかった。
そしてアラフォーになってもいまだに、私は父のアウトプットの少なさに「父は私のことはどうでもいいんだ、私の”送りたい”と思った気持ちを全然思いやってくれないんだ、ひとことくらい、嘘でもいいからお礼言ってくれたらいいのに!」と被害妄想を膨らませて悲しんでいた。
でも、実際は、父は喜んでいた。
しばらく使ってみてから、お礼を言おうと思っていたらしい(^^)汗
しかもそれどころか、今日通帳を記帳したら額がグンと増えていて、「え?あやしい業者から振り込まれた?」と思っていたら、父が入金していてくれたことが判明。
とあるお祝いで、大きな額を入金してくれていた。
そんなことは全く知らなかった私。
はぁ・・・勘違いの積み重ね。
アウトプットが少なすぎる父。
だから私は「一ミリも愛されていないんだ」と妄想してしまう。
だけどその真実は、父は父なりに家族のことを想っている。
昭和すぎて言葉にしないだけで、不器用すぎてコンタクトを取ってこないだけで。
言葉にしてくれよ~~~~~
感情表現してくれよ~~~~
アメリカ人の100分の1でいいから、言葉にしてくれよ~~~~
と、思うけれど。
いつも私は「私は親に愛されていない!!!」と被害妄想にひとり沼ってしまうけれど。
その後判明することはいつも、不器用なりに、不完全なりに、父母は私のことを想ってくれている部分が大いにある、ということ。
言葉少なすぎる父の、その胸の奥にある家族への愛情を、自分からたまに見つけにいかなければ全然見えてこない。
だけど確かにあるのだ。
「無い」ことは、全く無いのだ。