自分を隠すということがナンセンスすぎる理由

独り言日記

ここ数日、テレフォン人生相談の回答者の一人であるマドモアゼル愛先生にはまりまくって、彼の動画を見漁っている。

 

すごく癒やされるし、腑に落ちるし、最終的に甘えや依存心が削ぎ落とされて、自己責任論にたどり着けるから、背筋も伸びる。

 

そんなマドモアゼル愛さん(占星術占い師)の「どう生計を立ててゆくか」というタイトルの3連続のYoutube動画がすごく良かった。

 

これからは今ある8割の仕事がAI等によって淘汰されていく。

そして、この先に光が当たるのは、個人個人が自分自身を発揮(表現)した仕事だとのこと。

 

それで、愛先生がこんな話をしてくれた。

 

人の顔はみんな違う。

人の声もみんなそれぞれ違う。

人間の声って、みんな同じ周波数なんだけど、そこに微細な微細な違いがあり、地球上にこんなに人間がいるのに、同じ声の持ち主は誰一人としていない。

 

たとえば、アフリカに旅行に行って、「あれ?ご近所の〇〇さんの声がする。そんなわけないのに。なぜこんなところで彼の声が聞こえるのか?」と振り返ったら、やはりご近所さんがいた(アフリカ旅行に来ていた)。

 

そのぐらい、「あれ?この声は〇〇さんの声では?」とおもったら、その人なのである、ということ。

 

そんなわけないのに、こんなところでばったり会うはずがないのに、それでもその人は地球上に一人しかいないから、やっぱりその人なのである。

 

同じ人間は2人としていない。

身長、体重、顔のつくり、趣味、能力、何が好きで何が嫌いか、全部ぜんぶ違う。

そういう人間が地球上に何十億何百億と生きている。

 

そして、必ず、その人のその人らしさ、その人であること、を好きな他者はいる。

どんな人にも、その人に共通点や似通ったものを感じたり、好ましさを感じたりして、好意を持つ人間がいる。

だからこそ、AIに仕事が淘汰されまくっても、その人だからこそできる表現というものがあり、このさきも仕事ができていく。

 

ここでふと思った。

私は、自分を表現することが恥ずかしい。

自分を知られることが恥ずかしい。

 

中島みゆきの「悪女」に耳がキュンとする自分、イエローモンキーが好きな自分、テレホン人生相談を夢中で聴き漁る自分、ポッドキャストが大好きな自分、主婦であることに不安を感じている自分、現代アートを見ることが好きな自分、いろんな自分・・・そういう、端から見てポピュラーじゃない自分を、隠さなきゃいけないと思って生きてきた。

 

今まで、色んな人に、少し勇気を出して自分の趣味嗜好の一面を話すと「変わってるね」と言われてきた。

そのたびに「やっぱり私って変なんだ」と思って「言わなきゃよかったかな」と少し後悔したりした。

 

夫の友人家族が遊びにくるとする。

陽キャサイドの人々、パリピサイドの人々の手前、陰キャでマニアックな自分を隠し「普通の人」ぶることに一生懸命になる私。

 

でも・・・普通ぶって、どうするんだろう。

普通ってなんだろう。

マジョリティであることになんの魅力があるというのだろう。

 

世界中に私はひとりしかいないのなら、私は私らしさを隠したら、そこになんの価値がのこるのだろう。

 

中島みゆきの「悪女」を聴いて耳がキュンとなる、それが私らしさじゃないか。

イエローモンキーのジャムを聴くたびに、胸の奥底が熱くなる、それが私らしさじゃないか。

マニアックなポッドキャストを聴くことが大好きな私、それが私らしさじゃないか。

それを隠したら、私はのっぺらぼうじゃないか。

 

この世界に存在するただ一人の私を私たらしめているのは、私の個性や嗜好の一つ一つの集合体。

それを必死に隠して、そしたら誰が私を見つけられるのだろう。

誰が私を好きになれるのだろう。

のっぺらぼうの人は見つけられないじゃないか。

 

とくに非の打ち所のない「普通の人」。

そういう人を目指すことのナンセンスさよ・・・

 

この世に一人しかいない私という個性。

人間はみな、そういう生き物。

ひとりひとり違っていて、その個性を表現して生きていくから、百花繚乱の世の中。

 

私を構成する思考や趣味ひとつひとつに価値がある。

隠すなんて命の冒涜の極み。

 

マジョリティを目指して「普通」に見せることのナンセンスさに気がついた今日でした。

 

 

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