親を見限った。親を諦めた。すると執着心が消え、自立が始まった。

独り言日記

私はもう30年以上、親の愛を求めて生きてきた。

人が健全に育つのに「100」という量の愛が必要だとしたら、私は「10」くらいしかもらえなかった。

 

それで精神的に病気になったりいろいろしながら、それでも30代後半になっても愛を「100」もらうことを諦めきれず、その期待を捨てられず、ウダウダと親に絡んできた。

 

でも、ここに来て、ようやく、ようやく、心底痛感した。

 

「あ、うちの母は、絶対に傾聴できない人だ」

「絶対に私を母性で包み込むことができない人なんだな」

「私の父は絶対に100の愛を私に注ぐことはできないんだな。彼の精一杯は10なのだから」

そういったことを、心底痛感した出来事があり、その瞬間、私は親を生まれて始めて見限った。

 

親を生まれて始めて完全に諦めた。

 

それまでずっと、「諦めた」と思いながらも、100%あきらめきれずにウダウダやってきたのに・・・

 

●私の母は、傾聴する能力を壊滅的に持ち合わせていない

●共感力も持ち合わせていない

●子どもに寄り添うことが絶対にできない、どうしてもできない

このように「あ、絶対にできないんだ、もう絶対なんだ、未来永劫、そうなんだな」となぜかストンと納得した。

 

そして、もうそれでいいや、と心底思った。

 

もう両親と、私はガチトークをすることは一生ない。

家族愛について、もう一生語り合ったりしない。

もう、そういったことを一切求めない。

謝罪もいらない、罪悪感も持っていらない、愛も理解も傾聴もいらない。

なんならなるべく実家メンバーだけにならない(健全なうちの夫にかならず同席してもらおう)。

 

もうそういう、表面上の薄い薄い関係でいい。

 

そう、心底思った、はじめて。

 

子どもを憎い親はいないし、子どもを心底いじめたい親は(ほとんど)いないだろう。

だけど、必要十分量の愛情を与えられない器の親はいくらでもいる。

 

うちの親がそれだ。

健全に育つために100の愛が必要でも、彼らは10しか持ち合わせていなかったし、これからもそれは変わらない。

でも彼らは一生懸命、自分の持っている10を私に注いできたのだろう。

 

もうそれでいいや。

もう一生、(親にとって不可能な)傾聴は求めない、理解を求めない、理想量の愛を求めない。

もう、いらないや。

 

心底親を見限ってあきらめたら、不思議と心が軽くなった。

執着にまみれて重たくなっていた心が、軽くなった。

親に”こうなってほしい””こうあってほしい”と思っていたコントロール欲求も消え失せた。

 

はじめて、理想像への渇望が消え、ありのままの親でそこにいてくれたらいい、と思えた。

もう私は、愛も理解も求めないから。

 

もう私は、親の一挙手一投足によって(全く、もしくは今までほどは)傷つくことはないだろう。

はじめて自分は自分だと思えた。

 

親を見限り諦めたら、今まで一生懸命くれていた10の愛は見えてきたし、ようやく自分の自立が始まった気がする。

 

完全にあきらめたら、楽になれた。

心が軽い。

 

 

 

 

 

 

 

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